日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。ここにおいてそこを偲ぶものだ。ここにおいてそこを偲ぶとは、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端にわれわれがたまさか佇めるかどうかが、歌の読み方になる。
そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きして綴った和泉式部が擬似日記をもって教唆した。『和泉式部日記』とはそういうものである。擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。
そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きして綴った和泉式部が擬似日記をもって教唆した。『和泉式部日記』とはそういうものである。擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。